悟った日 2

 「来るか? うちへ」

 そう聞かれて私はなんと答えたのだろう。頷いただけだったかもしれない。何も反応していなかったのかもしれない。気づいたら車は発進していた。赤井さんは何も言わず、車を走らせていた。自分が消えたて仕方がなかった。

 赤井さんに支えられるようにして地下駐車場を抜けていく。案内された部屋はドアが開くと共に煙草の香りがした。

「シャワーはここだ。朝でもいいが、浴びた方が気は休まるだろう。タオルと適当に着るものを用意するよ」

 赤井さんはそれだけ残してどこかへ行ってしまう。何も考えないままここへ来ていたけれど、どうしたらいいんだろう。身体の筋肉が硬直したかのように動くことができない。

 アカデミーから切磋琢磨してきた戦友は、私を庇った。咄嗟の事に動けなかった私を押し倒すようにして銃撃を受けた。車の不審さには、酔った頭でも気付いていた。でも言わなかった。その判断ミスで彼の未来が途絶えてしまうかもしれない。

「っ、う……っ」

 どうして、動けなかった。どうしてもっと早く気づけなかった。どうして。

「……名前、?」

 壁を伝うようにその場にしゃがみ込む。一人で立っていられなかった。赤井さんからの控えめなノック音に、答えなきゃと思うけれどそんな気力はもう無い。口から漏れるのは、浅く不規則な呼吸ばかり。

「っ、名前」

 頭が、割れるように痛い。胸が、張り裂けるように苦しい。枯れた涙はもう出なくて身体は自然と体温を求めていた。

 側に来てくれた赤井さんの身体へ片腕を伸ばすと、肩を抱いてくれた。甘えるように、私は赤井さんの胸に頭を寄せたまま静かに呼吸を繰り返していく。今はこうしていないと、おかしくなりそうだ。ドクドクと波打つ鼓動は生きている証拠。優しく頭を撫でられて酷く安心してしまう。罪悪感で一杯なはずが、確実に存在している安堵の気持ち。そんなの認めたくないのに。

「……っ」

 見上げれば翡翠色の瞳が揺れていた。鼻が触れ合ってしまいそうだ。ああ、もう。何も考えられない。胸の奥から何かが湧き上がってくる。どうしようもなくなって、私は赤井さんの首筋に顔を埋めた。身体を密着させるように何度も腕に力を込めていく。

「っ……ぁ、」

 それは、まるで吸い寄せられているかのように。気づいたらピタリと、唇を肌に押し当てていた。その瞬間、赤井さんが身体を揺らす。肩を軽く押されてようやくハッとした。

「もう、眠ったほうがいいな」

 赤井さんの体温を間近に感じているのに、身体の芯から一気に冷えていくような感覚。

「少し、我慢してくれ」

 そう言って赤井さんは、私の背中と膝裏に腕を通すと横に抱いていく。ああ、何をしてしまったんだろう。赤井さんが今何を考えているのか全く分からない。何も言わないから全然、分からない。ベッドに下ろされると赤井さんはキッチンへ向かい、ウイスキーが入ったグラスを持ってくる。

「飲むんだ、少しは楽になる」

 差し出されて、私は受け取るしかなかった。ウイスキーの香り鼻を抜けていく。言われた通り一気に呷ると、喉が焼けるように痛んだ。

「今は休むんだ、捜査は任せていい」

 赤井さんの言葉は耳に入ってこない。ずっと、頭の中はさっきのことでいっぱいだ。グラスを握る手が弱まっていく。落としそうになっているのを見兼ねて赤井さんが受け取ってくれた。コツン、とグラスが鳴った。

「あかい、さ……」
「名前、今は休むんだ」

 まるで私を遠ざけるように。冷静になれと、言われているようだった。何も答えられないまま私はベッドに寝かされていく。横になると急激な眠気に襲われた。強制的にシャットアウトされたかのように、目の前はあっという間に真っ暗になった。

「あ……」

 それから、どれくらいの時間が経っただろう。窓から差し込む光に、私はゆっくりと目を覚ます。

 見慣れない部屋に戸惑ったのは一瞬。昨夜の出来事を全て思い出して、一気に虚無感に襲われた。今、何時だろう。まだ覚醒しきっていないまま上半身だけを起こしてみると、頭がいつも以上にボーッとして気持ちが悪かった。

 部屋からは人の気配が全くしないから、きっと赤井さんは捜査へ向かったのだろう。それにしても深く眠り過ぎた。睡眠薬でも使っていないとここまで深くは……。ああ、つまり赤井さんは元々私を眠らせるつもりだったのだ。憔悴しきっていた私を一人にして、自棄を起させるよりずっといい。

「はぁ……」

 私の鞄は丁寧に机の上に置かれていた。スマホを取り出すと通知のマークがいくつも来ている。“赤井さん”の文字は一番先に見てしまって、小さくため息をつく。気は重たいけれどメッセージを読むしかない。

“今日は休みだと伝えてある。好きに過ごしてくれていい”

 あんなことをして、何を言われるだろうと心していたけれど内容は至って端的だった。好きに過ごせと言われても困ってしまうけれど。

「うん……」

 こうして昨日よりも気持ちが落ち着いているのは、確実に赤井さんのおかげだと思う。ずっと、そばに居てくれた。同時に赤井さんの想いもハッキリ分かった。彼にとって私はやっぱり妹のような存在で、それ以上にはなり得ない。そんな気がした。

「遅れました、今から合流します」

 一度部屋に戻って身体を清め、身も心も一新し私は本部へ向かった。チームメンバー達は揃って心配そうに声を掛けてくれるけれど、気丈に振る舞えるぐらいには持ち直している。何より、今回の事件は自分の手で必ず決着をつけたい。強い意志を示すと、上司は渋々と言った形で私も捜査に加わることを承諾してくれた。後は赤井さんだ。これはある種の決意表明。

「あの……っ」

 何故来たんだと、その瞳で聞いてくる。でも、ここは分からないフリだ。

「鍵、見当たらなかったので管理人さんに助けてもらいました。なのでお部屋はちゃんと施錠しています。問題ないので安心してください」
「……名前、」
「もう平気ですので!すみません、ご迷惑を……でも、絶対、犯人見つけ出しますから」

 こういう時は、つらつらと言葉が出てくる。

「とにかくもう大丈夫なので。本当に。昨日は凄く助かりました……だからもう、この話はおしまい、です!私、仕事します」

 これ以上、昨日のことには触れないでくださいと案に伝える。察しのいい赤井さんはそうして、何も言ってこなかった。

 数週間後、重症だった彼の意識が奇跡的に戻った。すぐにお見舞いに行くと彼の恋人が安心したように笑っていて、私もそんな二人を見てから心から安堵した。事件の決着はまだついていないけれど、それでも、二人が元気でいてくれることが何よりも救いになっている。

「赤井さーん、おはようございまーす!」
「……朝から元気だな、君は」

 そうして今日も、私たちは今日も捜査に向かう。