気づいたら車は発進していた。赤井さんは何も言わず車を走らせていた。私はずっと銃撃の時の事ばかりを考えていた。何度、思い返しても結果は同じ。自分が許せなくて、不甲斐なくて。
「着いたよ」
車が止まったのは、赤井さんのマンションの地下駐車場。助手席のドアを開けて手を差し出してくれている赤井さんに、私も腕を伸ばす。迷惑をかけているはずなのに、そばにいてもらえていることが、こんなにも心強い。支えられながら部屋へと入っていくと、いつも嗅ぎ慣れている煙草の香りがした。
「シャワーはここだ。浴びた方が気は休まるだろう。タオルと適当に着るものを用意するよ」
赤井さんはそれだけ残してどこかへ行ってしまう。その瞬間、また一気に不安が押し寄せてきた。筋肉が硬直したかのようにその場から動くことができない。
同期の彼は優秀な人だった。私と違いNYに来てすぐに結果を出し、周りから信頼され、そうして潜入捜査を任された彼とは今夜、いわば決起集会のような時間を過ごしていた。今まで一生懸命に駆けてきたからか、私も久しぶりにお酒が回っていてお店を出る頃の記憶があまりない。でも不審な車が、私たちが店を出ると同時に発進したのは覚えている。
「どう、して……」
車の窓が開けられた。咄嗟の事に動けなかった私を押し倒すようにして、彼は私を庇った。警戒、するべきところでその判断を誤った。
どうして。何故。もっと早くに彼らの動きに気づいていれば、応戦だってできただろう。そうすれば誰よりも優秀だった彼がこんな状況になることはなかった。そう、彼ではなくむしろ私が。
「……名前、?」
急に胸の奥が苦しくなって、一人で立っていられなかった。床にしゃがみ込むと、赤井さんからの控えめなノックがされる。答えなきゃと思うけれど口から漏れるのは、浅く不規則な呼吸ばかり。
「っ、名前」
ドアを開けて入って来た赤井さんは、すぐに側へ駆け寄ってきた。背中を撫でられ、顔を覗き込んでくるけれど今はとても答えられない。頭が割れるように痛い。胸が苦しい。涙はもう出なくて身体は自然と赤井さんの方へ傾いてしまう。
「ゆっくり、息を吐くんだ」
温かい体温を感じてそのまま赤井さんの胸に頭を寄せていた。優しく頭を撫でられて、その動作に合わせる様に深く息を吐く。赤井さんの鼓動がよく聞こえて、酷く安心してしまう。
「ちがう、っ……」
そんな自分が許せなかった。
「わたし、が……っ!」
「名前、」
それは違う、と言わんばかりの意思のこもった赤井さんの声に何も言えなくなる。でも、そうとしか思えなくて必死に頭を振る。
「君が無事でよかった」
「……っ」
「無事で、よかったんだ」
違うと、首を振ろうとすれば何度も、同じ言葉で優しく諭される。見上げれば翡翠色の瞳が揺れていた。
「君は悪くない」
「……っ」
「何も悪くない」
赤井さんの真っ直ぐな言葉が心の奥深くに響いてくる。大きな怪我無く、無事で良かったのだと、今の自分をこんな風に肯定されてしまっては、必死に堪えていた感情が抑えきれなくなってしまう。
答えを探し出したくて、私は赤井さんを見つめていた。赤井さんの言葉を受け止めていいのだろうか。そうして見つめ合っていると、じわじわと熱い感情が昂ってくる。危険な状況を乗り越えた後の生存本能からなのか。互いの鼻が触れ合ってしまいそうな距離にあって、身体のの自由が効かなってくる。
「……っ」
引き寄せられしまいそうな感覚に陥りながら、ハッとした時にはもう、頬にキスが落とされていた。それから、どうなったのだろう。気づけば唇が重なっていて、その柔らかな感触を感じとった瞬間、ようやく脳が働き出していた。思わず顔を背けて距離を取ると、気まずさが一気に込み上げてくる。とてつもなく長く感じる空白の間に私は一生懸命、今の出来事を頭の中で整理するけれど何一つ説明できない。
「っ、すみま、……っ」
咄嗟に謝罪の言葉を口にすると、赤井さんは何も言わず私の膝に腕を差し入れて横に抱えようとする。
「少し我慢してくれ、」
「……っ」
ふわっとした浮遊感を感じて思わず赤井さんのシャツを掴んだ。頭の中はまだ混乱していた。私は何をしてしまったんだろう。赤井さんも、何を思っているんだろう。全然分からなくて、でも後悔の気持ちだけがハッキリと残っている。
「飲むんだ、楽に眠れる」
ベッドに下ろされると赤井さんはキッチンから琥珀色の液体が入ったグラスを持ってきてくれた。ウイスキーだ。鼻に抜けていった刺激的な香りに思わず顔が歪む。それでも言われた通りに呷ると喉の奥が一気に熱くなった。
「このまま1日休んでいけ。捜査は任せていい。今日は休暇を取ると伝えておく」
赤井さんの言葉は耳に入ってこない。ずっと、頭の中はさっきのことでいっぱいだ。グラスを握る手が弱まっていく。落としそうになっているのを見兼ねて赤井さんが受け取ってくれた。もう片方の手で私の頬を包み込んでくれていた。
*
あの後の記憶はほとんどない。目が覚めると窓からは光が差し込んでいた。
「あ……」
見慣れない部屋に戸惑ったのは一瞬。昨夜の出来事を全て思い出して自然と頭を抱えてしまう。今、何時だろう。まだ覚醒しきっていないまま上半身だけを起こしてみると、頭がいつも以上にボーッとしていて気持ちが悪かった。
部屋からは人の気配が全くしないから、きっと赤井さんは捜査へ向かったのだろう。それにしても深く眠り過ぎた。睡眠薬でも使っていないとここまで深くは眠れない。ああ、つまりあのウイスキーには睡眠薬が入っていたのだ。
「はぁ……」
私の鞄は丁寧に机の上に置かれていた。スマホを取り出すと通知のマークがいくつも来ている。“赤井さん”の文字は一番先に見てしまって、小さくため息をつく。気は重たいけれどメッセージを読むしかない。
“今日は休みだと伝えてある。好きに過ごしてくれていい”
覚悟して開いてみれば内容は至って端的だった。端的すぎるくらいに。それはつまり、昨夜は何もなかった、忘れていい、気にしていないのどれかなのだろう。赤井さんらしい優しさだ。
「うん……」
昨日よりも気持ちが随分と落ち着いているのは、赤井さんのおかげだ。ずっと、そばに居てくれた。自棄になりかけたけれど、ずっと優しく導いてくれていた。代償として大きな気まずさが残ってしまったけれど、彼が忘れてくれるのならそれでいい。今、私がやるべきことはただ一つだから。
「遅れました、今から合流します」
身も心も一新し私は本部へ向かうと、強い意志を持って捜査に加わりたいと上司に伝えた。今回の事件は自分の手で必ず決着をつけたい。チームメンバー達は心配そうな顔をしていたけれど、でもちゃんと、平静を装うことは出来ていたはずだ。上司も渋々と言った形で承諾してくれている。
「あの……っ」
ただ一人、自席に座ったままだった赤井さんに声をかけにいくと、彼は何故来たんだと言いたげに目を細めていた。
「あの、鍵、見当たらなかったので管理人さんに助けてもらいました。なのでお部屋はちゃんと施錠しています。問題ないので安心してください」
「……それは、」
「もう平気ですので!すみません、ご迷惑をおかけして。でも絶対、犯人見つけ出しますから」
こういう時は、つらつらと言葉が出てくる。
「とにかくもう大丈夫なので。本当に。昨日は凄く助かりました。だからもう、この話はおしまい、です!私、仕事します」
これ以上、昨日のことには触れないでくださいと案に伝えると、私は赤井さんの返事を聞かないまま席に戻った。これ以上会話をするのが怖かった。察しのいい赤井さんはそうして、あの件については何も触れようとはしない。
同期の彼は奇跡的に意識を取り戻したものの、捜査官の道に進むのを辞めてしまった。